開く人、開かない人
この間、待ち合わせよりも早く場所に到着したので近くのカフェに入った。
私は本当にカフェが好きで。特に喫煙席のあるカフェ。マナーの範囲内であればタバコなんぞどこでだって吸えるのだが、カフェでする一服が無類に好きだ。
サーファーが海を愛するように、喫煙者は喫煙所を愛している。同じ海、同じ波が一つとして無いように、喫煙所もまた一つとして同じものはない。隣の席に座る誰かは常に新しい他人であり、窓から見える空模様や街の風景が織りなす一枚絵は刻々とその様相を変えてみせる。まさに諸行無常。移り変わる時代にしがみつこうとして擦りむいてしまった心を治癒するのが、一杯のコーヒーであり一本のタバコなのだ。
煙を燻らせていたら、あっという間に店を出なければいけない時刻になってしまった。カップと灰皿を下げ台に置いた後、店を出ようとするとなんと、出れない。
一体どういうわけか自動ドアが開いてくれなかった。私という人間が目の前に立っているというのに、あのドアときたら真正面からシカトを決め込んでくるのだから見上げた度胸である。
私は迅速に店員に告げ口をしてやった。
「すみませんあの、ドア、ドアが」
すると店員は、あーはいはい、という感じでレジの下に潜り込んだ。どうやら手動でドアを開けるためのカギがそこにあるらしい。
チャリンという音が微かに聞こえると店員は顔をあげ、カギをこちらにもってこようとしたが、不意にその足が止まった。
どうした。いや、まさか。私は恐る恐る開かずのドアの方へ振り返ると、ドアはしっかりと開いていた。外は小雨が降っているようだった。
「あー、開きました。すみません」
なにも悪いことをしていないが私はとりあえず店員に向かって申し訳なさを発しつつ、いそいそと街へ向かうのだった。
自動ドアというのは、自動で開くから自動ドアだ。しかし私のように自動ドアが開いてくれないケースというのはどうもごく稀に起こることらしい。締め出された身からすると、すごく嫌な気分になる場面である。なぜ私のことを皆と同じように通してくれないのか、ドアよ。惨めな思いを味わうのはもう人間関係だけでよろしい。せめて機械には愛されたいイダルゴである。
さて。
この場面。ツチヤタオならどうだろうか。
ツチヤタオも自動ドアに締め出しも食らうことがあるのだろうか。真面目な話、ドアの開く開かないはなんらかの機械的なトラブルが原因であると考えられる。ドアに偏屈な自我かあるいは悪質なプログラミングがなされていない限りは、私もツチヤタオもドアの前では平等である。だからツチヤタオとて間が悪ければ、自動ドアが開いてくれない日もあるにはあるだろう。
ここから仮定の話だ。仮にツチヤタオがそういった場面に出くわしたといて、彼女はどう理解し、どう動くだろう。彼女の座右の銘の一つに「感謝と初心を忘れない!」というのがある(引用元
連続ドラマ「鈴木先生」:テレビ東京)。ツチヤタオはまず、ドアが自動で開いてくれるということに感謝する。それはドアの製造元への感謝であり、ドア自身への感謝でもある。ドアが開いてくれるからこそ、我々はその場を往来することができるのだ。ドアが開かなければ我々はただの「人」である。通過を許されたものこそが晴れて「通行人」となり得るのだ。ツチヤタオには「自動ドアなんて自動で開いて当然」という心持ちなど微塵も備わっていない。ドアの前に立つ度に初心に帰り、問題なく開いた際にはしっかりと感謝を示す。運悪く開かなければ、それはドアへの感謝の心が希薄になっていることの気づきをツチヤタオに与え、彼女は自動ドアが開いてくれるまで深々と頭を下げ、赦しを得られるまで感謝の意をドアに示し続けるのだ。
こんなに美しい光景がこの世界のどこにあるというのだ。私ときたら、やれドアが開かないだの、やれ何でこんな目にだの、御託を並べるばかりである。ドアへの感謝のなき者にドアは開かない、それをツチヤタオは深く理解しているのだ。
私はツチヤタオのようになりたい。