ツチヤタオ・イン・マイ・マインド

へたり込んだ人間はまた歩き出す、土屋太鳳(ツチヤタオ)を胸に。

Cold Station

最寄りの駅にホームレスの男性がいる。

僕が中学生の頃から見かけているので、かれこれ10年近くはあそこに住まっているかもしれない。見る度に「ああ、いるなあ」と思う。10年の間、見かけがほぼ変わらないので、しっかり老いているのかどうかさえもわからない。その間、着実に街の風景や人々の装いは変わり続けているのに。

 

この間彼を見かけたときは、50代くらいのおじさんに話しかけられていた。

「これあげるから。あんたも頑張んなよ、自立してさあ、飯食えるように・・・」というおじさんの話を、聞いているんだかいないんだか曖昧な相槌を打ちながら、もらった菓子パンの袋を破いて中身にがっついていた。

多分、ホームレスも50歳くらいだと思うんだけど、同年代のおっさんに説教めいたことを言われるのはあんまり気分良くないよなあ、と傍目に見ていて思った。でもパンをがっついているのを見てると、そんなことどうでもいいって感じなんだろうなとも思えた。

 

ホームレスにモノを恵む人って本当にいるんだなあ、とも思った。パンをあげたおじさんも、ホームレスに対してなんかしたかったんだろうな。もしくは、なにか言いたかったんだろうな。頑張れよって。自立しろよって。上から目線の態度でも、見てないフリをするよりかはマシなこともあるのか。いや、どっちがマシとか、そういうことじゃなくて、ただパンをあげてそれに一言二言を添えた、それだけのことなのかもしれない。

 

 

ツチヤタオはホームレスを見かけたとき、何を考えるだろう。

もしも「ああ、いるなあ」って感じなら、僕と同じだ。

そもそもツチヤタオが行きそうな場所にホームレスがいる感じが想像できない。もしホームレスがいたとしても、ツチヤタオという存在がホームレスたちを掻き消してしまいそうな感じもする。

ツチヤタオは終電とか乗らなそうだもんなあ。河川敷にもいかないだろうなあ。

公園には行くかもしれない。たまのオフの日に気分転換に散歩している途中、たまたま公園でダンボールを敷いて寝そべっているおじさんを見るかも。

考えてみれば、ツチヤタオにとってホームレスは異物じゃないのかもしれない。だって生きている人間じゃない。おんなじ太陽を浴びて、昼下がりにウトウトしてしまうような、同じ人間。だからホームレスもサラリーマンも役者も子どもも、みんな同じ。そういう感覚かもしれない。

 

そう考えると、ホームレスにパンをあげることってのは取り止めもないことだ。お腹が空いていそうな人に食べ物をあげる。人間は皆腹が減る。

一層深まっていく師走の寒空は、誰に対しても平等に寒さを与える。

開く人、開かない人

この間、待ち合わせよりも早く場所に到着したので近くのカフェに入った。

私は本当にカフェが好きで。特に喫煙席のあるカフェ。マナーの範囲内であればタバコなんぞどこでだって吸えるのだが、カフェでする一服が無類に好きだ。

サーファーが海を愛するように、喫煙者は喫煙所を愛している。同じ海、同じ波が一つとして無いように、喫煙所もまた一つとして同じものはない。隣の席に座る誰かは常に新しい他人であり、窓から見える空模様や街の風景が織りなす一枚絵は刻々とその様相を変えてみせる。まさに諸行無常。移り変わる時代にしがみつこうとして擦りむいてしまった心を治癒するのが、一杯のコーヒーであり一本のタバコなのだ。

 

煙を燻らせていたら、あっという間に店を出なければいけない時刻になってしまった。カップと灰皿を下げ台に置いた後、店を出ようとするとなんと、出れない。

一体どういうわけか自動ドアが開いてくれなかった。私という人間が目の前に立っているというのに、あのドアときたら真正面からシカトを決め込んでくるのだから見上げた度胸である。

私は迅速に店員に告げ口をしてやった。

「すみませんあの、ドア、ドアが」

すると店員は、あーはいはい、という感じでレジの下に潜り込んだ。どうやら手動でドアを開けるためのカギがそこにあるらしい。

チャリンという音が微かに聞こえると店員は顔をあげ、カギをこちらにもってこようとしたが、不意にその足が止まった。

どうした。いや、まさか。私は恐る恐る開かずのドアの方へ振り返ると、ドアはしっかりと開いていた。外は小雨が降っているようだった。

「あー、開きました。すみません」

なにも悪いことをしていないが私はとりあえず店員に向かって申し訳なさを発しつつ、いそいそと街へ向かうのだった。

 

自動ドアというのは、自動で開くから自動ドアだ。しかし私のように自動ドアが開いてくれないケースというのはどうもごく稀に起こることらしい。締め出された身からすると、すごく嫌な気分になる場面である。なぜ私のことを皆と同じように通してくれないのか、ドアよ。惨めな思いを味わうのはもう人間関係だけでよろしい。せめて機械には愛されたいイダルゴである。

 

 

さて。

この場面。ツチヤタオならどうだろうか。

 

 

ツチヤタオも自動ドアに締め出しも食らうことがあるのだろうか。真面目な話、ドアの開く開かないはなんらかの機械的なトラブルが原因であると考えられる。ドアに偏屈な自我かあるいは悪質なプログラミングがなされていない限りは、私もツチヤタオもドアの前では平等である。だからツチヤタオとて間が悪ければ、自動ドアが開いてくれない日もあるにはあるだろう。

ここから仮定の話だ。仮にツチヤタオがそういった場面に出くわしたといて、彼女はどう理解し、どう動くだろう。彼女の座右の銘の一つに「感謝と初心を忘れない!」というのがある(引用元

連続ドラマ「鈴木先生」:テレビ東京)。ツチヤタオはまず、ドアが自動で開いてくれるということに感謝する。それはドアの製造元への感謝であり、ドア自身への感謝でもある。ドアが開いてくれるからこそ、我々はその場を往来することができるのだ。ドアが開かなければ我々はただの「人」である。通過を許されたものこそが晴れて「通行人」となり得るのだ。ツチヤタオには「自動ドアなんて自動で開いて当然」という心持ちなど微塵も備わっていない。ドアの前に立つ度に初心に帰り、問題なく開いた際にはしっかりと感謝を示す。運悪く開かなければ、それはドアへの感謝の心が希薄になっていることの気づきをツチヤタオに与え、彼女は自動ドアが開いてくれるまで深々と頭を下げ、赦しを得られるまで感謝の意をドアに示し続けるのだ。

 

こんなに美しい光景がこの世界のどこにあるというのだ。私ときたら、やれドアが開かないだの、やれ何でこんな目にだの、御託を並べるばかりである。ドアへの感謝のなき者にドアは開かない、それをツチヤタオは深く理解しているのだ。

 

私はツチヤタオのようになりたい。

まえがき

道に石ころがあると、思わず蹴ってしまう。何も考えていないから、転がっていく石とつま先のじんわりした感覚が頭の中で結びついて初めて「あぁ、いま僕は石を蹴ったんだ」と気づく。(これは全くの仮定の話だけど、そういえば最近は道で石ころを蹴っていないなあ、もっぱら車での移動ばかりだからかなあ、ということに自分自身気づいている最中です)

 

ある日の夕食。実家でテレビを見ながら、温め直したパスタを食べている。画面では女子高生と思しき女性と若い男性が何かを喋っている。抑えられた色調、表示されないテロップ、そういえばどこかで見覚えのある顔。あ、土屋太鳳とオダギリジョーだ。テレビを見ていた僕は、ドラマを見ていることに気づいた。パスタを平らげた後もなお、空の器を挟んでドラマを見続けた。エンドロールが終わった後、調べるとそれは「チアダン」というドラマだったことを知る。流し台で食器を洗い、水を切りながら、土屋太鳳が一生懸命にチアダンスを踊っていたことをなんとなく思い返した。

 

数ヶ月が経ち、「チアダン」は最終回を終えた。こんなにも毎週のめり込むようにドラマを見ていたのはいつ振りだろう。家族の目を憚らずに何度も涙を流し、果てはエキストラとして実際の現場に足を運ぶことになろうとは、自分で思ってもみないことだった。もうロケッツ(作中で主人公らが所属していたチアダンス部の名称)のダンスと物語を見ることはできないのか、とベタな感傷に浸ったりもした。もう会うことができない、そう思うと同時に、真っ先に思い出されたのは土屋太鳳の天真爛漫な笑顔だった。この笑顔が「ウソ」なわけがない。芝居という虚構だとしても、それは現実をも上回る真実だと思った。『A-Studio』という番組に土屋太鳳がゲスト主演した回でみせたプライベートな一面、『TOKIOカケル』にゲスト主演した回でみせた太い芯が通った実直さ、日々のインスタグラムにおける平均的な文字数からは大きく逸脱したキャプションの量でわかる「伝えたい」という思いの熱さ、そして何より僕がエキストラの現場でまざまざと体感した、人間・土屋太鳳の圧倒的なポジティブバイブス。土屋太鳳という人間の類い稀さを証明することはとても簡単なことだと思う。

 

僕は神を信じないが、土屋太鳳を信じている。土屋太鳳の持つ思想や理念を信じている。土屋太鳳が歩く方向にどんなに遅れてでも走って向かいたい。土屋太鳳と同じ国に生まれたこと、同じ文化、同じ言語を有していることを心から誇りに思いたい。

もちろん、大げさに聞こえていることは自分でもわかっているが、決して誇張しているわけではないことをわかってもらいたい。だけども「お前に土屋太鳳の何がわかる?」面と向かってそう言われたら僕はおそらく口を紡いでしまうだろう。まして土屋太鳳に「私の何がわかるの?」と言われようものなら、僕はコンクリートを額の血で赤黒く染め上げるほどの土下座をするだろう。

とはいえ、僕の土屋太鳳への信仰心は何人にも阻害されるべきものではない。それは力強く言っておきたい。僕が前を向き、日々の営みを勤勉に積み上げていくために、この信仰心は大きなパワーになると感じている。それが致命的にイタい勘違いだったとしても。ならば、実際の土屋太鳳を「土屋太鳳」とし、私の心の中の土屋太鳳を「ツチヤタオ」としようじゃないか。これで誰にも文句は言われまい。なんだか両生類みたいな字面だけども、私にとっては失い難い概念がここに創出されたわけである。

 

このブログでは私(イダルゴと申します)が日々の生活の中で出くわした如何ともしがたい事案と、「ツチヤタオ」ならその時どう動き、何を語り、何を感じるのかを考えるのかを記述していき、より良き「人」として、果ては土屋太鳳に少しでも近づけるよう、自身を鍛え上げていくことをここで宣言させていただきます。