ツチヤタオ・イン・マイ・マインド

へたり込んだ人間はまた歩き出す、土屋太鳳(ツチヤタオ)を胸に。

まえがき

道に石ころがあると、思わず蹴ってしまう。何も考えていないから、転がっていく石とつま先のじんわりした感覚が頭の中で結びついて初めて「あぁ、いま僕は石を蹴ったんだ」と気づく。(これは全くの仮定の話だけど、そういえば最近は道で石ころを蹴っていないなあ、もっぱら車での移動ばかりだからかなあ、ということに自分自身気づいている最中です)

 

ある日の夕食。実家でテレビを見ながら、温め直したパスタを食べている。画面では女子高生と思しき女性と若い男性が何かを喋っている。抑えられた色調、表示されないテロップ、そういえばどこかで見覚えのある顔。あ、土屋太鳳とオダギリジョーだ。テレビを見ていた僕は、ドラマを見ていることに気づいた。パスタを平らげた後もなお、空の器を挟んでドラマを見続けた。エンドロールが終わった後、調べるとそれは「チアダン」というドラマだったことを知る。流し台で食器を洗い、水を切りながら、土屋太鳳が一生懸命にチアダンスを踊っていたことをなんとなく思い返した。

 

数ヶ月が経ち、「チアダン」は最終回を終えた。こんなにも毎週のめり込むようにドラマを見ていたのはいつ振りだろう。家族の目を憚らずに何度も涙を流し、果てはエキストラとして実際の現場に足を運ぶことになろうとは、自分で思ってもみないことだった。もうロケッツ(作中で主人公らが所属していたチアダンス部の名称)のダンスと物語を見ることはできないのか、とベタな感傷に浸ったりもした。もう会うことができない、そう思うと同時に、真っ先に思い出されたのは土屋太鳳の天真爛漫な笑顔だった。この笑顔が「ウソ」なわけがない。芝居という虚構だとしても、それは現実をも上回る真実だと思った。『A-Studio』という番組に土屋太鳳がゲスト主演した回でみせたプライベートな一面、『TOKIOカケル』にゲスト主演した回でみせた太い芯が通った実直さ、日々のインスタグラムにおける平均的な文字数からは大きく逸脱したキャプションの量でわかる「伝えたい」という思いの熱さ、そして何より僕がエキストラの現場でまざまざと体感した、人間・土屋太鳳の圧倒的なポジティブバイブス。土屋太鳳という人間の類い稀さを証明することはとても簡単なことだと思う。

 

僕は神を信じないが、土屋太鳳を信じている。土屋太鳳の持つ思想や理念を信じている。土屋太鳳が歩く方向にどんなに遅れてでも走って向かいたい。土屋太鳳と同じ国に生まれたこと、同じ文化、同じ言語を有していることを心から誇りに思いたい。

もちろん、大げさに聞こえていることは自分でもわかっているが、決して誇張しているわけではないことをわかってもらいたい。だけども「お前に土屋太鳳の何がわかる?」面と向かってそう言われたら僕はおそらく口を紡いでしまうだろう。まして土屋太鳳に「私の何がわかるの?」と言われようものなら、僕はコンクリートを額の血で赤黒く染め上げるほどの土下座をするだろう。

とはいえ、僕の土屋太鳳への信仰心は何人にも阻害されるべきものではない。それは力強く言っておきたい。僕が前を向き、日々の営みを勤勉に積み上げていくために、この信仰心は大きなパワーになると感じている。それが致命的にイタい勘違いだったとしても。ならば、実際の土屋太鳳を「土屋太鳳」とし、私の心の中の土屋太鳳を「ツチヤタオ」としようじゃないか。これで誰にも文句は言われまい。なんだか両生類みたいな字面だけども、私にとっては失い難い概念がここに創出されたわけである。

 

このブログでは私(イダルゴと申します)が日々の生活の中で出くわした如何ともしがたい事案と、「ツチヤタオ」ならその時どう動き、何を語り、何を感じるのかを考えるのかを記述していき、より良き「人」として、果ては土屋太鳳に少しでも近づけるよう、自身を鍛え上げていくことをここで宣言させていただきます。